小雨の音の耳打つ夜に

雑記・備忘録

引っ越す知人が処分するという本を何冊か譲りうけた小雨さん、ここ数日はその中の一冊、安部公房著『砂の女』をちびちびと読んでいた。

妙な夢から醒めたあと、すでに靄のむこうに消えかけた夢のしっぽだけを掴み、時折じぶんの無意識の正体がわかりかける、気がすることがある。そんなときの気分と似た読後感をもつ小説である。

妙な夢の断片を覚えている朝など、それを巷の「夢占い」になぞらえて戯れに解釈してみたくなることもある。しかし、何度かそれをやってみるうちに分かってきたのは、それをやっている間に「解りかけた何か」はぐんぐん遠のき、まったくの別物になるということであった。
これは、言いたいことを言葉にして伝えようとしたら、言いたかったことと全然ちがってしまった時の感じとも似てるな、と小雨さんは思う。
かつて小雨さんがもっとずいぶんと若かった頃には、その「違ってしまう感じ」のもどかしさが耐えがたくて、言葉を発することを最小限に控えた時期もあった。けれども、なんとはなしに歳を重ね、大方の折り合いはついたようである。矛盾や齟齬や無駄なことというのは言ってみれば生きていることそのもので、これらを面白がれるくらいでいた方が生きるのは楽である、と。もっとも今だって、その「違ってしまう感じ」に心底うんざりする日もそこそこあるけれど。

そういう意味で、ことばというものに翻訳しようとすると霧散しがちな感覚を作品内に保持している『砂の女』は面白い作品である。かなり多くの言語に翻訳されているようで、それは文化以前の、多くの人が共通してもつ根源的な記憶のような何かに触れてくるからなのかもしれない、とか適当に考えつつ今夜も眠りにつく小雨さんであった。

はじめに

小雨さんは今現在、無職である。
友人の家に居候し、貯めた金を切り崩しながら暮らしている。
日々はとりとめもなく過ぎていく。

小雨さんはなかなか忘れっぽい。
一年くらい前の自分の日記を読み返すと、覚えていないことがまあまあ書いてあってびっくりする。
五年も前の日記となると、小雨さんには思いもよらない発想が小雨さんの字で綴られていて、不思議な気分になる。

五年前の自分は、もはや他人なのだろうか…?

そんな小雨さんであるが、いつしか日記を書くことをやめてしまった。面倒になったのかもしれない。あるいは、ペンをとりたくなるほどの出来事が起きないのか。

とにかく、物事を忘れがちな小雨さんのうたかたの日々を、日記の代わりにここに記録することにした。
まぁ、早い話が備忘録である。

***きょうの小雨さん****

・早起きするつもりが、目覚めたら13時前
・燃えるごみを出しそびれるが、中身をぎゅうぎゅうに押し込んで余白を作り、まだ出すひつようがなかったことにする
・図書館に行く。コピーしたい資料があったが、小さな用紙に記入しカウンターで手続きしなければコピーできないことを知り、億劫になってやめる
・帰り道、桜がほぼ満開
・夕飯の材料を買い出しにスーパーへ。料理しながらビール(発泡酒)をあおるのがささやかな楽しみであったが、近ごろ節約を心に決めたばかりなので5分ばかり購入をためらう。しかし結局3缶をカゴにほうりこむ
・夕飯はナスとブロッコリーのカレー

以上